7月1日は、藤沢病院の創立記念日になります。
そこで、少し藤沢病院の誕生についてご紹介します。
清心会藤沢病院は、現理事長である石井紀夫の祖父 石井政治郎が1931年7月に開設しました。
当時はまだ藤沢市はなく、病院は鎌倉郡にあったため、鎌倉脳病院と命名されました。
その後、市町村の合併に伴い1941年に村岡地区が鎌倉から藤沢市へと組み込まれたことから、
鎌倉脳病院から藤沢病院へとその名前を変更しました。そして、2031年には創立100年を迎えます。

【昭和40年頃の藤沢病院】
創設者である石井政治郎は、現村岡地区、当時の村岡村の村長を大正3年から昭和16年まで
の長きにわたり務めました。
政治郎は学校の増築や校庭の拡張、村役場の新築、村道の新設なども手がけ、村岡地区の基盤を
作った人物として称えられ、彼の功績を後世に伝えるために、彼の功績を後世に伝えるために、
村岡城址公園には顕彰碑が建てられています。
さて、政治郎の功績の中で一番注目すべきは柏尾川の河川の改修工事があります。
村岡地区は元来土地が低く、長年にわたり農民は度重なる水害で悩まされていました。
しかし、そこに広い耕地の一部を埋め立てることで大船駅が出来たため、
横浜方面から流れて村岡へ入る柏尾川の従来の水路が塞がれ、
村岡村と深沢村の耕地ではさらなる水害が発生し、年々莫大な損害を受けるようになりました。
特にこの耕地を穀倉としていた小塚部落の疲弊は酷いもので、村長 石井政治郎は村民の窮状を
見かねて、再三県当局へ柏尾川下流の改修を陳情しましたが、叶いませんでした。
そこで石井政治郎は村民に呼びかけて、全村一致、決死の覚悟で柏尾川の改修工事に
取り組みました。しかし、第一次世界大戦後のインフレの影響を受けて工事は難航し、
いっこうに進むことはありませんでした。
ついに石井政治郎は「これ以上皆を道連れにすることはできない」と決断し、
「今後の工事はいっさい個人的事業として取り組み、その代わりに、工事完成の暁には
村岡村に払い下げられることになっていた廃川地の権利を自分に譲渡してほしい」と宣言し、
当時の柏尾川の改修工事のすべての責任を一手に引き受けました。
その後も、柏尾川の工事はさらに継続されましたが、行政と多くの方達のご尽力のおかげで、
今では穏やかな川の流れを保っています。

【朝の体操の様子 左端 石井政次郎】
特定医療法人社団清心会の敷地は、このような石井政治郎の村岡地域への貢献の結果として
与えられたものです。さらに石井政次郎は「人を愛せば必ず報われる」としてこの地を活かし、
鎌倉脳病院を開設し、その後の人生を精神疾患患者の支援のために投じました。
清心会はこの石井政治郎の意思を受け継ぎ、これからも地域貢献を果たしていく所存です。
